「論理的であれば正しい」というのはおかしい

「自分は論理的だから正しいんだ」という言い方をする人がいますが、「論理的」ということと「正しい」ということは異なる概念です。なので「自分は論理的だから正しい」という言い方は、「論理的」と「正しい」という2つの異なるものをごちゃごちゃにしているということになるため、少し変です。そういう発言をする人は、論理学について少し誤解を持っていると言えそうです。今回はこの誤解を解くための説明をしてみようと思います。

説明方法は異なっていますが、今までこのブログで書いてきた2つの記事「正しいことが真であるとは限らない」「論理的な人は常識を信じない」もこの記事と趣旨はだいたい同じで、論理学についての誤解を解きたいと思って書いたものなので、お時間ある方は合わせて読んでみてください。

「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」は真

「0が1以上ならば富士山は世界一の山である。」

この命題が偽であると思った人は、残念ながら論理について十分な知識を持っているとは言えません。この命題は論理的には真です。論理にあまりなじみのない方は、この命題が真というのは意外に感じるでしょう。

「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」は論理的には真ですが、この文章を正しいと感じる人は少ないと思います。これが「論理的」と「正しい」の違いです。この違いについてより深く考えてみましょう。

「ならば」の意味

以下の命題は真でしょうか?偽でしょうか?

「X=5ならばXは4より大きい」

これは真です。高校の数学の教科書で習う内容です。では、次の命題は真でしょうか?偽でしょうか?

「牛の足が5本ならばその牛の足は4本より多い」

普通は牛の足は4本なので、偽でしょうか? いえ、「牛の足が5本ならば」というのはあくまで仮定です。仮定は漢字の通り「仮に定めたこと」にすぎません。「普通の牛の足が5本ではない」ということは、この命題そのものの真偽にはまったく関係がありません。

実際に、インドで突然変異によって5本足の牛が生まれたことがあるようです。この牛のことを考えてみると、足は4本より多いです。他の国でも5本足の牛が産まれたと仮に想像してみると、その牛の足は4本より多いです。よって「牛の足が5本ならばその牛の足は4本より多い」という命題は真となります。

論理学での「ならば」は「もしそれが成り立つのならば」という意味です。なので「仮定が普通には成り立たない」ということは、命題そのものの真偽にはまったく関係ありません。仮定が普通には成り立たなくても、それがたとえ異常な条件であっても、成り立つ場合だけを考えて結論を出す必要があります。

仮定が絶対に成り立たない場合どうするか

さて、なぜ次の命題は真なのでしょうか?

「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」

先ほどご説明した通り、論理学では仮定が成り立つ場合だけを考えて結論を出します。「0が1以上」というのが成り立つのはどのような場合でしょうか?

「0の次の数」というのが数学での1の定義です。0の次の数は絶対に1なので「0が1以上」というのはどんな場合にも成り立たちません。このような場合、つまり仮定が絶対に成り立たない場合は、結論が何であっても命題全体は真になる、という決まりになっています。

「仮定が絶対に成り立たない場合は、命題は真になる」という決まりになぜなっているのかの正確な説明は難しいので、今回は割愛します。その代わり、この決まりを解釈しやすくなるイメージをご紹介しましょう。そのイメージは「ありえないことが起きてしまうような世界では、何でもかんでも成立してしまう」というものです。

0が1以上になることは絶対にありません。これまでもそうですし、これからもずっとそうです。「0が1以上になる世界」は人間が今まで見たことない世界であり、これからも見れない世界です。そのような世界では何でもかんでも起こってしまっても不思議ではありません。そのような世界では「富士山は世界一の山」というのが成り立たっても良さそうです。なので「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」は真となります。

これはあくまでもイメージであって、正確な証明ではありません。しかし、「仮定が絶対に成り立たない場合は命題全体は真となる」という決まりを覚えるためには役に立つイメージだと思います。

命題の真偽と結論の真偽は別

「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」は真です。ということは、結論である「富士山は世界一の山である」は真なのでしょうか?そんなわけはありません。世界一の山はエベレストであり富士山ではないので「富士山は世界一の山である」は偽です。

「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」の仮定、結論、命題全体の真偽は下記のようになります。

仮定「0が1以上」:偽

結論「富士山は世界一の山である」:偽

命題全体「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」:真

つまり、偽である仮定から偽である結論を導き出していて、全体としては真であるということになります。

「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」という命題を考えるときは「0が1以上である世界」を考える必要があります。それは私たちが生活している世界ではなく、何でもかんでも起こってしまう世界です。そのような世界では富士山が世界一の山であることも成り立つので、「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」は真です。(繰り返しますがこれはあくまでイメージであって厳密な証明ではありません。)

仮定である「0が1以上」や結論である「富士山は世界一の山である」という文そのものには、「ならば」という条件文が入っていません。この場合は、普通に私たちが生活している世界について考えます。私たちが生活している世界では「0が1以上」も「富士山は世界一の山である」も成り立っていないので、両方とも偽になります。

「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」は何でもかんでも起こってしまう世界の話なので真であり、「0が1以上」「富士山は世界一の山である」は現実世界の話なので偽となります。「命題全体」にはその内部に「ならば」という条件文がついていて、「結論」そのものには「ならば」という条件文がついていないので、その条件の有無によって、命題全体が真、結論が偽、という差が生まれています。

「0が1以上」や「富士山は世界一の山である」といった「ならば」を含まない命題は、「現実世界ならば」という仮定が省略されていると考えてもいいかもしれません。

「(現実世界ならば)0が1以上」:偽

「(現実世界ならば)富士山は世界一の山である」:偽

「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」:真

前2つは現実世界の話なので、現実世界で成立していなければ偽となります。最後の1つは「現実世界」という仮定がないので、0が1以上になってしまう何でもかんでも起こってしまう世界の話となり、真になるという感じです。

「正しい」と「真である」の違い

「正しいことが真であるとは限らない」という記事の中で、このような図を掲載しました。

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この図を見ると、真であることは必ず正しいことであるように思えます。

「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」という命題は真であるので、この図の「真である」という部分に含まれることになります。これを図1としましょう。

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しかし、「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」は真であるにも関わらず、正しいことだとは思えません。つまり、真であるが正しくないことがあるということになってしまいます。このことを図で書くと下記の図2のようになります。

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図1と図2のどちらが正解なのでしょうか?図1のように、真であることはすべて正しいのでしょうか?それとも、図2のように、真であっても正しくないことがあるのでしょうか?これは「正しい」という言葉をどのように扱うかによって変わってきます。

楽しいことや悲しいことはその人によって異なります。「象は大きいか小さいか」の答えも犬と比較するかクジラと比較するかで変わります。「楽しい」「悲しい」「大きい」「小さい」と同じように、「正しい」という言葉の意味も人や文脈によって変わる言葉なのです。

図1と図2のどちらを正解とするかは人それぞれです。感覚的に受け入れがたくても真であるなら正しいと思う人、論理学的な感覚を持っている人は、図1のように「真であることはすべて正しい」というのが正解となります。感覚的に受け入れ難いことは真であっても正しくないと思う人は、図2が正解になります。

「論理学的に真かどうか」は厳密に決まるのに対して、「正しいかどうか」は個人個人の感覚によって決められます。なので、「真であることはすべて正しい」と思うか、「真であることの中にも正しくないことはある」と思うか、どちらかというのも人それぞれということになります。

論理学は銀の弾丸ではない

「真であることの中にも正しくないことはある」ということが人によって正解になるということは、たとえ論理学的に真であるからといって、それを正しいことであると他人に強制することはできないということになります。

銀の弾丸」という言葉、もともとは「悪魔を一発で撃退する武器」という宗教的な言葉ですが、ソフトウェア業界では「銀の弾丸などない」という言葉を「一発で難解な問題を解決できる方法はない」という格言としてよく使われています。

もし、ある分野を勉強しただけで簡単に「正しいこと」を知れたら、その分野についての勉強はとても役に立つでしょう。それは実生活において最強の知識になりうるかもしれません。「真か偽か」を論じる論理学はそのような「簡単に正しいことを知れる学問」だと思っている人もいるかもしれません。しかしそうではないのです。論理学での「真である」ということと実生活の「正しい」ということには、違いがあるのです。

論争になった時に相手を論破する手段として論理学を使うのは間違った使い方だと思います。論理学はそのような目的で発展したわけではありません。論破のための「銀の弾丸」として論理学を使うのではなく、もっと人生を豊かにするために論理学を使っていただきたいと思っています。