成長とは、社会と仲良くなることである。

人は、成長したくなるものらしい。

子どもはそうだろう。成長して大人になれば、親や先生に怒られることもないし、お金を自分で自由に使えるようになるし、体が大きくなればスポーツもしやすいし、恋愛もできる。子どもが成長して大人になりたい理由はわかる。

では、大人が成長したくなる理由はなんだろう? というか、大人にとって成長とはなんだろう? 20才以上の人が、年をとるにつれ体が大きくなっていくことは、あまりない。なので大人にとって成長というものは、身体的なものではなく、精神的なものだということになる。

大人が精神的な成長をしたい理由はなんだろうか? ストレスを減らして病気になるリスクを減らすことかもしれないし、子供を育てる上での模範となるためかもしれない。一般的にはいろんな理由があるだろう。ただ、理由が限定される場合もある。「成長」という言葉が職場で話された場合は「仕事の成果を上げるための成長」という意味にほぼ限定される。成果をあげ、給料をあげ、あわよくば職場の中でのステータスを上げるために成長するのが、大人の職場での成長なのだ。

大人はみんな成長したいのだろうか? これはそうとは言えないと思う。給料が上がったらいろんなものが買えるし、ステータスが上がったら好みの仕事ができるし、ともすれば社会を自分の好みに少し変えることだってできるかもしれない。しかしそのためには大量に時間を使って、大量にストレスを貯める必要がある。自分が行った努力に見合った給料が手に入る確証はないし、好みの仕事につくためには運も必要だ。成長を諦めてしまう人もいる。例えば、全財産を寄付して宗教団体に出家するとかして。それはそれで「職場での成長」をやめて「宗教での成長」を目指すことを選んだとも言えそうだけど。

成長したくない大人はいる。これは「大人はみんな成長したい」という命題の反例だ。反例があると「偽」であるというのはあくまで論理学上でのならわしであって、実生活ではそういう感じにはならない。少しばかり成長したくない大人はいるものの、大人は(ほとんどが)みんな成長したいと思っている。

大人は、なんのために職場で成長したいと思っているのだろうか? 良いものを買うために給料を上げたい人、やりたい仕事があってそれの担当にしてもらうために頑張る人、会社の中のステータスを上げて威張りたい人、社会の課題を憂えていて状況を変えたい人。いろんな目的があると思う。いずれにしろ、なんらかのやりたいこと(ものを買いたい・仕事したい・威張りたい・課題を解決したい)があって、それを実現するために成長したいのだ。

やりたいことができないのはなぜか。社会に制限されているからだ。メルセデスベンツの車が120円で買えないのは、市場原理という社会の規則が個人を制限しているからだ。ものが適正価格でしか買えないこと、仕事が自分勝手にできないこと、威張りたいのに聞いてくれる人がそんなにいないこと、解決したい課題がうまく解決できないこと。社会が自分の思い通りにならないのは、「社会」が自分以外の70億人の思いによって動いているからだ。

社会を変えたい、いや、せめて社会は変わらなくて良いから会社の中を変えたい、いやいや、会社全体を変えるのは大変だから自分の部署だけでも変えたい、いやいやいや、上司だけでも、いやいやいやいや、先輩かせめて後輩の一人でも。。。と、自分の思い通りにならない「社会」のほんの一部分である「後輩」あたりから変えていこうとするのが大人の成長の過程である。

後輩あたりから変えていこうとする社会変革計画の途中で、自分の方が変わることがある。「それ変えてどうすんの」と言われて、変えたくなくなることもある。社会の一部である身近な他人が変わったり、他人は誰も変わらず自分の方が変わったりする。その過程を「成長」と呼んでいる人が多い気がする。社会が変わるか自分が変わるか。それは友達と仲良くなるためにケンカを繰り返して折り合いをつけていく過程と似ているかもしれない。成長とは、自分と「社会」とが仲良くなっていく過程のことなのだ。

「大人の成長」は出世のことだけではない。大人が成長すると全員社長になるわけではない。「大人の成長」というのは、一直線上を進んでいくようなものではなく、社会と自分の間で折り合いをつけていくものなんだな、と思って、なんだか一人で腑に落ちた気分になったので、この文章を書いてみた。