論理的な人は常識を信じない

「論理的な人は、常識にこだわり、常識から外れると怒る」というイメージがあるらしい。これは大きな誤解だ。本当に論理的な人は常識にこだわったりしない。常識から外れるという理由で怒ったりはしない。

 

なぜ論理と常識が同じだと思われるのか?

なぜか「論理的に考える」ということを「常識的に考える」ということだと思っている人がいる。実際は、論理と常識はまったく別物だ。「論理的」と「常識的」が同じ意味だと誤解されてしまうのは、きっと両方とも「感情的」の逆の言葉として使われることが多いからだと思う。

 

「感情的」という言葉はネガティブな意味で使われることが多い。自分の感情だけで物事を考えるワガママな人がいるとみんなが困ってしまうからだ。感情的な考え方をやめさせるための言い回しとして、「論理的に考えなさい」とか「常識的に考えなさい」というのがよく見られる。

 

つまり、こういう図によって論理と常識は近いものだと思われているということになる。

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しかし、実際はこんな感じになっていて、論理と常識は遠い位置にあり、まったく異なる意味を持っている。

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「常識と感情は逆だ」という時と、「論理と感情は逆だ」という時の「逆」は軸が違う。常識も論理も感情の逆なのだけれど、常識と論理の意味はまったく異なる。

 

同じ言葉の逆どおしが別の意味になることはよくある。例えば「おばあさん」と「男の子」。性別の軸で、おじいさんの逆はおばあさん。また、年齢の軸で、おじいさんの逆は男の子。だからといって、おばあさんと男の子が同じにはならない。感情の逆である論理と常識が別の意味になるのも、これと同じような理屈だ。

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感情と常識は何が逆なのか?

「感情の逆が常識」という時、感情と常識を何で比較して逆だと思っているのだろうか?

 

常識を英語で言うと "common sense"。つまり、常識とは共通の感覚のこと。一方、感情というのは1人だけの感覚のことを指す。

 

人が複数人集まったコミュニティがある時に、それぞれの感情を集約すると形で常識が生まれていく。そのコミュニティにどういう感情を持つ人が多いかによって、そのコミュニティ内の常識が決まっていく。「2ちゃんねるの常識」は2ちゃんねらーの感情によって作られ、「日本人の常識」は日本人全体の感情によって作られ、「人類の常識」は人類全体の感情によって作られる。

 

「感情的に考える」ということは1人の感覚だけで考えてしまうことを指し、「常識的に考える」ということは複数人の感覚で客観的に考えることをさす。なので「感情の逆が常識」という時には「1人か複数人か」という意味で逆だと見ているということになる。

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感情と論理は何が逆なのか?

「感情の逆が論理」という時、感情と論理を何で比較して逆だと思っているのだろうか?これは下記の文を見てみるとわかりやすい。

「私は悲しい。人は悲しいと泣く。私は人だ。だから私は泣く。」

この文を分解してみよう。

  • A:私は悲しい
  • B:人は悲しいと泣く
  • C:私は人だ
  • D:AかつBかつCだから私は泣く

AとBとCを根拠としてDを結論としている文になっている。

 

この根拠になっているところを詳しく見てみると、Bは人間の生理現象であり、Cは私の生物学的分類について書かれている。ではAはどうだろう。Aは「感情」以外のなにものでもない。つまりこの文は「感情と生理現象と生物学的分類を根拠とした文章」となる。「感情(とその他もろもろ)を根拠にした論理的な文章」ということだ。

 

別の文についても考えてみよう。

「人は失恋すると悲しい。人は悲しいと泣く。だから人は失恋すると泣く。」

この文を分解してみよう。

  • E:人は失恋すると悲しい
  • F:人は悲しいと泣く
  • G:EかつFだから人は失恋すると泣く

Fはさっきと同様で、人の生理現象だ。Eは何だろうか?誰か1人の感覚ではないので「感情的な考え方」ではない。これは一般的な感覚を述べているので「常識」となる。つまり「常識(と生理現象)を根拠にした論理的な文章」ということになる。

 

このように「感情を根拠にした論理的文章」もあるし「常識を根拠にした論理的文章」というものもある。論理というのは考える過程の話であって、根拠に何を持ってくるかは論理的かどうかにはまったく関係がない。生理現象でも、生物学的分類でも、感情でも、常識でも、何であっても論理的文章の根拠にすることはできる。

繰り返しになるが、論理というのは考える過程の話であって、考える根拠の話ではない。つまり、感情と論理の大きな違いは「考える根拠なのか考える過程なのか」の差だということになる。 感情も常識も「考える根拠」なので、論理のような「考える過程」とは別のグループということになる。

図にするとこうなる。

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つまり、人数でいうと「感情と常識は逆」であり、根拠か過程かでいうと「感情と常識はどちらも根拠なので同じ。論理は過程なので、感情&常識と論理は逆」となる。

「人数でいえば感情と常識は逆」であり、なおかつ「根拠か過程かでいえば感情と常識は同じ」ということ。この2つの文章は矛盾していない。「おじいさんとおばあさんは性別が逆」「おじいさんとおばあさんは同じく老人」と言っているのと同じようなことだ。

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考える過程としての「直感」

考える根拠として使われるものには、感情や常識など複数のものがある。それと同じように、考える過程として使われるものは「論理」以外にもある。その1つが「直感」だ。

下記の文を見てみよう。

「私は悲しい。だから紫色の幽霊の絵を描いた。」

この文は「悲しい」という感情を根拠にして、非論理的で直感的な結論として「紫色の幽霊の絵を描く」というものを導き出している。このような、論理的ではなくて直感的に判断が下されることは世の中にたくさんある。これも「考える過程」の一種だ。

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まとめ

この記事で書いたことをまとめると下記のようになる。

  • 「常識的に考える」ということと「論理的に考える」ということは違う。
  • 「感情的」と「常識的」はどちらも「考える根拠グループ」であり「1人の感覚か複数人の感覚か」という意味で逆。
  • 「論理的」と「直感的」はどちらも「考える過程グループ」である。
  • 「感情と常識は人数の意味で逆」であり「感情と論理は根拠か過程かの意味で逆」である。なので「常識も論理も感情の逆だから、常識と論理は同じもの」というのは間違っている。

学問的な詳細を知らない部分もあるので、曖昧に書いてしまったところもあるが、だいたいはこの記事に書いてあることは合っていると思う。明らかに間違っている部分があれば指摘していただきたいです。

常識と論理が同じものだと思ってしまうのはとてももったいない。「非常識な論理」や「非論理的な常識」などで面白いものはたくさんあるのに、それを無視して生きていかなければならなくなってしまうからだ。いつかこのブログでもそういう「非常識な論理」「非論理的な常識」についても書いてみたいと思う。