正しいことが真であるとは限らない

「正しい」ということと「(論理的に)真である」ということがごっちゃになっている人が多い。正しいことが真であるとは限らない。

「正しい」と「真である」ということは区別して考えた方が良い。

この記事では、「正しい」と「真である」がどのように違うのかを説明していきたい。

 

「正しい」は「真である」より広い

「正しい」は「真である」より広い範囲を指す言葉だ。

「正しいこと」は、「真であること」と「正しいけれど真ではないこと」の2つに分類され、下記の図のようになる。

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「真であること」は、例えば「1+1=2」など。これは真であり正しい。真であるものは、それがどんなものであっても正しい。

「正しいけれど真ではないこと」の例としては、例えば「人を殴ってはいけない」というものなどがある。これは正しいが、真ではない。

 

「人を殴ってはいけない」が真ではない理由

「人を殴ってはいけない」は真ではない。なぜだろうか?

「真」というのは、どのような状況下でもそれが成り立つことを言う。

「1+1=2」は現代でも縄文時代でも、アメリカでもインドでも、海底でも宇宙空間でも成立する。よってこれは真。

「人を殴ってはいけない」は成り立たないこともある。例えば法律というものが生まれていなかった数千年前の時代においては、殴ってはいけないというルールがなかったので、成り立たない。なので、これは真ではない。

 

 

「人を殴ってはいけない」が真ではないのなら、偽なのか?

真ではない「人を殴ってはいけない」は偽なのだろうか?いや、偽ではない。

「真ではないものはすべて偽」というのが論理学についての一番大きな誤解だ。そうではない。「人を殴ってはいけない」は真でもないし、偽でもない。真でも偽でもないものは、命題ではない。命題でないものは、論理学の対象ではない。

論理学は「真か偽か決まるもの」を対象にしているので、論理学をやる上では真か偽かが明確に決まる。しかし、「人を殴ってはいけない」というのは真か偽かが決まらないので命題とは呼べず、よって論理学で正しいとか間違っているとかを判定しようとすること自体が間違っている、ということになる。

 

「人を殴ってはいけない」が正しいのはなぜか?

論理学では真とは呼べない「人を殴ってはいけない」という文を正しいと思うのはなぜなのだろうか?

「正しい」という言葉を辞書で引いてみるとこう出てくる。

kotobank.jp

形や向きがまっすぐである。
道理にかなっている。事実に合っている。正確である。
道徳・法律・作法などにかなっている。規範や規準に対して乱れたところがない。

 このうち、「論理学的に真である」というのは2番の「道理にかなっている」に該当しそうだ。それに対して、「人を殴ってはいけない」というのは3番の「道徳・法律・作法などにかなっている。」に該当する。

図にすると下記のようになる。

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 1+1=2であるということは論理的に真であるので正しい。

人を殴らないことは、論理的な理由でなく、道徳的な理由によって正しいとされる。よって真ではないが、正しい、となります。

 

さいごに

「論理的な思考」というものについての誤解がいろんなところで見受けられるので、「正しい」と「真である」の違いを中心に、論理というものがどういうものかをご説明させていただいました。

今後もこのスペースで似たようなことについて書いていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。