「役に立つ様相論理」はじめに(ボツ版) - 冷静に物事を進めるために

※ この記事内容は分かりにくいので別記事として書き直しました。

↓ この記事の書き直し版はこちら。 nologicnolife.hatenablog.com

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「〇〇するべき!」

「〇〇しないべき!」

どっちでもいい場合は?

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世の中は、いろいろな人びとの議論によって成り立っています。

政治家たちの議論によって日本の行く末が決まり、会社員の議論によって仕事の内容が決まり、家庭内の議論によって子育て方針が決まり、そして、友達との議論によって休日に何をして遊ぶかが決まります。

どのようなシーンでも、特に多いタイプの議論は「〇〇について賛成か反対か」というものです。「法律を改正して夫婦別姓を許可するべきか?」「この会社は新しい事業に手を出すべきか?」「子どもを塾に行かせるべきか?」「日曜日にキャンプに行くべきかどうか?」などなど。

賛成か反対かを議論する際には、賛成派と反対派それぞれの極端な意見ばかりが目立って収拾がつかなくなってしまう、ということがよく起こりがちです。なぜそのようなことが起こってしまうのでしょうか?

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「役に立つ様相論理」 書籍化計画についてと、目次案

 

書籍化計画について

 
学問としての論理学と、いわゆる「ロジカルシンキング」と言われるものとの差が大きすぎる、というのが10年くらい前からずっと気になっている。
 
ロジカルシンキング」と呼ばれるものは、ほぼ「人の心はどのような形なら情報を把握しやすいか」という心理学的な分野の話ばかり。そこに取ってつけたように論理学用語を間違った意味で入れ込んだりして、なかなかカオスな状況になっている。
 
いろいろと勉強していく中で、まだ一般的にはメジャーになっていないが、実生活でも使えそうな論理学の分野「様相論理」というものを見つけた。これについて書いていくことで、社会でも実用的で、なおかつ学問的にも間違っていない論理学の知識をまとめていこうと思う。
 
いつか書籍化することを前提に、本の体裁で書いていこうと思う。タイトルは「役に立つ様相論理」。書いていけばいつか誰かの目に止まって何かしら起こるかもしれない、という淡い期待を持って書いていきたい。
 
様相論理を軸に、様相論理じゃない学問の分野にもたくさん触れる感じにしたい。それぞれの様相的概念に関連する事柄を並べることで、考え方のヒントになることをたくさん書きたいと思う。
 
 
 

 「役に立つ様相論理」 目次案

 ※ 書いたところからリンクを貼っていきます。

 

 

はじめに(書き直し版) - 真とも偽とも言えない日常の問題のために - No logic, no life.

 
第1章 様相論理とは?(時相論理)

第1章の小見出しリスト

  • 「ずっとあなたのことを愛し続ける」
  • 「ずっとそうだ」と「いつかそうなる」
  • ベン図で書いてみる
  • 「ならば・または・かつ・ではない」の記号
  • 真理値表
  • 様相演算子
  • 論理式で書いてみる
  • 様相的関係の一覧

 


第2章 義務・権利・許容・禁止(規範論理)

第2章の小見出しリスト

  • 「してよい」と「しなければいけない」
  • ベン図で書いてみる
  • 論理式で書いてみる
  • なぜしなければいけないのか?
  • 「法律である」と「法律は守るべき」の違い
  • ヒュームの法則
  • 事実グループ「起きた行為」「合法性」
  • 価値グループ「してよい行為」「悪い法律」
  • 極論の否定は極論ではない
  • あなたはその意見のどこを否定したいのか?

 


第3章 信じる・知る(認識論理)

第3章の小見出しリスト

  • 真であっても信じない人たち
  • 信じないことと、否定を信じることの違い
  • 「間違っているとは信じていない」
  • ベン図と論理式で書いてみる
  • 信じることと知っていることの違い
  • 正当化された真なる信念
  • 正当化ってなあに? ー 反証可能性
  • 信じることを信じる、知っていることを知る
  • 4型公理
  • 人間の脳はすごいことをしている
  • 人工知能はどこまで進むか

 

 


第4章 必然性・可能性(可能世界論)

第4章の小見出しリスト

  • 必然的に正しいと言えるものを探して
  • 演繹と帰納
  • グルーのパラドックス
  • 自然の斉一性原理
  • 「地球に人間がいる」は必然的ではない
  • 「1+1=2」は必然的である
  • 必然的な真と偶然的な真
  • 可能性 ー もしも生まれ変わったら
  • 論理的可能性と物理的可能性
  • ベン図と論理式で書いてみる
  • 可能世界論
  • 哲学的ゾンビ
  • この世界の姿を探す旅

矛盾こそ正義

心理学

人が矛盾を嫌うのは、人には「認知的不協和」という「矛盾を認知すると不快感を覚える性質」があるからだ。つまり、矛盾を嫌う感情そのものは、心理的な問題であって、論理的な問題ではない。矛盾していることを怒ることが良いことなのかどうか、というのは、論理学では結論が出ない。正しくもないし、間違ってもいない。ただ単に、矛盾していることを怒る人が多いという状況があるだけ。

論理学

論理学は矛盾をタブー視してはいない。現に、論理学には「矛盾許容論理」という分野がある。論理学者は、矛盾しない論理も研究するし、矛盾する論理も研究する。論理学者は研究さえできれば良くて、その都度、矛盾を許したり許さなかったりを使い分けている。

哲学

小池百合子さんがよく使う「アウフヘーベン」という言葉は「相反する二種類の考え方をぶつけあうことで、第三のより良い新しい考え方を見つける」という意味の哲学用語。「矛盾を乗り越える」という言い方をすることもある。議論を始めるためには、まず相反する矛盾した考え方が必要。「アウフヘーベンを起こす」というのは単に「議論する」ということとほとんど同じことのような気もする。アウフヘーベンを取り立てていう必要があるほど、政治家は今までアウフヘーベンを起こしてなかったんかい!という感じもする。

仏教

僕は無宗教だが、いろいろなところで見聞きする仏教の話には、「矛盾」に近い状況をあらわす言葉が多いように思う。「色即是空 空即是色」がいい例。存在するものは存在しなく、存在しないものは存在する。矛盾を乗り越えたいと思う人間の願望が、矛盾しているように見える仏教用語を次々と作り出してきたのかもしれない。

物理学

ニュートン力学でどうにもならない矛盾が起こったので、アインシュタインはその矛盾を相対性理論で説明した。それでも矛盾が残ったので、それを説明するために量子力学という新しい物理学が生まれた。今も物理学の中には矛盾が存在していて、物理学者はその矛盾が解消される説明方法を見つけ出そうと日々研究している。将来、物理学が矛盾を全部説明しきった場合には、人類の長年の夢が叶ったということで喜ぶ人は多いだろう。しかし同時に、大きな謎解きがもうできなくなってしまうということに、悲しさを感じる人も出てくると思う。

数学

「差が2の素数のペア(5と7、11と13、などなど)は無限に存在するか?」という問題は、長年に渡り世界中の数学者を悩ませている未解決の問題。このような、長年証明されていない未解決の問題が、数学には山のようにある。かつての数学者は頑張ればすべての問題が解けると思っていたが、「永遠に頑張っても解けない問題が絶対にある」とゲーデルという人が1930年に論理的に証明してしまった。多くの世界中の数学者はものすごくがっかりした。ゲーデルが証明したのは「数学には矛盾がないのであれば、数学には証明も反証もできない問題がある」というもの。矛盾がないことそのものが、すべての問題を解きたいという数学者の夢をふさいでいたのだ。

芸術

「こういうものが芸術である」という「芸術の定義」というようなものができそうな時、芸術家はそれを壊そうとする。キャンバスに落書きだけ描いてみたり、便器に名前だけ書いてみたり、演奏も何もせずに「無音の音楽だ」と言い張ってみたりする。芸術の定義に反するものこそ芸術。矛盾という概念に一番耐性があるのは芸術かもしれない。

社会学

この宇宙に矛盾が存在していたおかげで物理学が発展してきたとはいえ、認知的不協和という性質を持つ我々人間の社会においては、矛盾というものはなるべく減らしていかないといけない。「青信号は進むべき、かつ、青信号は止まるべき」は詩としては存在してもいいが、それは法律やルールになってはいけない。つまり、矛盾は正義ではないのだ。

成長とは、社会と仲良くなることである。

人は、成長したくなるものらしい。

子どもはそうだろう。成長して大人になれば、親や先生に怒られることもないし、お金を自分で自由に使えるようになるし、体が大きくなればスポーツもしやすいし、恋愛もできる。子どもが成長して大人になりたい理由はわかる。

では、大人が成長したくなる理由はなんだろう? というか、大人にとって成長とはなんだろう? 20才以上の人が、年をとるにつれ体が大きくなっていくことは、あまりない。なので大人にとって成長というものは、身体的なものではなく、精神的なものだということになる。

大人が精神的な成長をしたい理由はなんだろうか? ストレスを減らして病気になるリスクを減らすことかもしれないし、子供を育てる上での模範となるためかもしれない。一般的にはいろんな理由があるだろう。ただ、理由が限定される場合もある。「成長」という言葉が職場で話された場合は「仕事の成果を上げるための成長」という意味にほぼ限定される。成果をあげ、給料をあげ、あわよくば職場の中でのステータスを上げるために成長するのが、大人の職場での成長なのだ。

大人はみんな成長したいのだろうか? これはそうとは言えないと思う。給料が上がったらいろんなものが買えるし、ステータスが上がったら好みの仕事ができるし、ともすれば社会を自分の好みに少し変えることだってできるかもしれない。しかしそのためには大量に時間を使って、大量にストレスを貯める必要がある。自分が行った努力に見合った給料が手に入る確証はないし、好みの仕事につくためには運も必要だ。成長を諦めてしまう人もいる。例えば、全財産を寄付して宗教団体に出家するとかして。それはそれで「職場での成長」をやめて「宗教での成長」を目指すことを選んだとも言えそうだけど。

成長したくない大人はいる。これは「大人はみんな成長したい」という命題の反例だ。反例があると「偽」であるというのはあくまで論理学上でのならわしであって、実生活ではそういう感じにはならない。少しばかり成長したくない大人はいるものの、大人は(ほとんどが)みんな成長したいと思っている。

大人は、なんのために職場で成長したいと思っているのだろうか? 良いものを買うために給料を上げたい人、やりたい仕事があってそれの担当にしてもらうために頑張る人、会社の中のステータスを上げて威張りたい人、社会の課題を憂えていて状況を変えたい人。いろんな目的があると思う。いずれにしろ、なんらかのやりたいこと(ものを買いたい・仕事したい・威張りたい・課題を解決したい)があって、それを実現するために成長したいのだ。

やりたいことができないのはなぜか。社会に制限されているからだ。メルセデスベンツの車が120円で買えないのは、市場原理という社会の規則が個人を制限しているからだ。ものが適正価格でしか買えないこと、仕事が自分勝手にできないこと、威張りたいのに聞いてくれる人がそんなにいないこと、解決したい課題がうまく解決できないこと。社会が自分の思い通りにならないのは、「社会」が自分以外の70億人の思いによって動いているからだ。

社会を変えたい、いや、せめて社会は変わらなくて良いから会社の中を変えたい、いやいや、会社全体を変えるのは大変だから自分の部署だけでも変えたい、いやいやいや、上司だけでも、いやいやいやいや、先輩かせめて後輩の一人でも。。。と、自分の思い通りにならない「社会」のほんの一部分である「後輩」あたりから変えていこうとするのが大人の成長の過程である。

後輩あたりから変えていこうとする社会変革計画の途中で、自分の方が変わることがある。「それ変えてどうすんの」と言われて、変えたくなくなることもある。社会の一部である身近な他人が変わったり、他人は誰も変わらず自分の方が変わったりする。その過程を「成長」と呼んでいる人が多い気がする。社会が変わるか自分が変わるか。それは友達と仲良くなるためにケンカを繰り返して折り合いをつけていく過程と似ているかもしれない。成長とは、自分と「社会」とが仲良くなっていく過程のことなのだ。

「大人の成長」は出世のことだけではない。大人が成長すると全員社長になるわけではない。「大人の成長」というのは、一直線上を進んでいくようなものではなく、社会と自分の間で折り合いをつけていくものなんだな、と思って、なんだか一人で腑に落ちた気分になったので、この文章を書いてみた。

哲学メモ

哲学や論理についてのメモ4つ。

それぞれに関連性はあまり無いです。

 

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「知識とは正当化された真なる信念である」という古代哲学者プラトンの言葉は重要。「正当化されること」「真であること」の重要性はよく語られるけれど「信念であること」の重要性はあまり語られない。一般的に正しくなさそうなことを信じる人がなぜいるのか(守護霊インタビューとか)については「正当化されているか」とか「真であるか」とかを考えても答えは出ないと思う。「信念とはどういうものなのか」を考えないといけない。

 

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「論理的である」ということがどういう状態を指すのかというのはケースバイケース。例えば「シュレーディンガーの猫」のような話は論理的であるかどうか? 科学的に正しいことが非常識的な話であることはよくある。「科学的に正しいこと」と「常識的であること」を「論理的である」という1つの言葉にまとめようとするところに本当は無理がある。

 

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「論理的でないと怒る」という現象はよく考えると面白い。「感情論は論理的でない」と言われているのに、論理をきっかけに「怒り」という感情が出てくるのは変。「論理的でないと怒るという感情」が特例として感情論ではないとされているのは不思議だ。「論理的でないと怒る」というのは人間に認知的不協和という性質があるからっぽい。

 

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事実判断と価値判断はヒュームのギロチンによって分かれる。価値判断の中に主観と客観があって、主観の中に感情と良心がある、みたいなイメージが良さそうに思う。

文章を書くことと論理学について

何かを書くことで生計が成り立ったら幸せだろうな、と思う。しかしライターになりたいというわけでもない。社会問題にも疎く、新商品にも興味がなく、面白ネタを思いつく能力もない。

分野としては、詩と論理学が好きだ。詩を書くことで儲けられたら一番楽しいと思うのだけれど、天性の才能に左右される分野なので不可能だと思う。なので儲かりチャンスを狙うとすると論理学の方になってくる。でも論理的思考によるビジネス成功術や出世術は書けない。なぜなら出世していないし、出世術の分野にはそれほど興味がないからだ。

論理学は、相手を論破するためのものでもないし、伝わりやすい文章を書くためのものでもない。議論に強くなったり文章が上手くなったりするのは「ロジカルシンキング」であり「論理学」ではない。両者はまったく別のものだ。ビジネス業界での「ロジカル」「論理」は議論能力とか文章能力とかの話として「ロジカルシンキング」の意味で使われるが、それは学問的には論理学とは関係ない。議論能力や文章能力は、コミュニケーションなので心理学の分野に含まれると思う。

論理学をやっても議論能力や文章能力が上がらないとなると、論理学は何に役立つのか。

まず「そもそも学問は役に立たせることを目的としてやるものではない」という認識が必要。宇宙の果てがどうなっているかとか、人間の祖先がどんなだったかとか、そういう学問的に重要なことをやったところでビジネスの世界に何かメリットがあるわけではない。利益主義は純粋な学問の研究を阻害したりすることさえある。

とはいえ論理学は実生活にまったく役立たないわけでもない。論理学の役立たせ方として一番効果的なのは課題整理だと思う。どういう理由でどういう結論が出るかを整理する能力は、論理学を学習することで上げることができる。これは個人の内省的な能力だ。論理学分野によって内省能力を上げて、心理学分野によってコミュニケーション能力を上げることで、結果的にその合算で議論能力や文章能力を上げる、というのが「ロジカルシンキング」なのかもしれない。

論理学者自身はあくまで学問がやりたいだけなので「論理学を実生活に役立てよう」とは思っていない。なので、論理学の中には実社会に使われていないものがたくさんある。その中には、実生活に応用すればすごく役立つものがたくさんありそうな気がする。僕が個人的に注目しているのが論理学の「様相論理」という分野。しかしどう応用すれば一番いいのかまだはっきりとはわからない。それをちゃんと書けばそこそこニーズがある文章が書けるのではないかと妄想していたりする。

とはいえ、それがどれほど大変なことなのか、それがどれほどニーズを生んで儲かることなのかが分からないため、本気で取りかかってはおらず、このブログにたまにちょこちょこ書いている、という状況。これからもそんな感じでやっていきます。

「論理的であれば正しい」というのはおかしい

「自分は論理的だから正しいんだ」という言い方をする人がいますが、「論理的」ということと「正しい」ということは異なる概念です。なので「自分は論理的だから正しい」という言い方は、「論理的」と「正しい」という2つの異なるものをごちゃごちゃにしているということになるため、少し変です。そういう発言をする人は、論理学について少し誤解を持っていると言えそうです。今回はこの誤解を解くための説明をしてみようと思います。

説明方法は異なっていますが、今までこのブログで書いてきた2つの記事「正しいことが真であるとは限らない」「論理的な人は常識を信じない」もこの記事と趣旨はだいたい同じで、論理学についての誤解を解きたいと思って書いたものなので、お時間ある方は合わせて読んでみてください。

「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」は真

「0が1以上ならば富士山は世界一の山である。」

この命題が偽であると思った人は、残念ながら論理について十分な知識を持っているとは言えません。この命題は論理的には真です。論理にあまりなじみのない方は、この命題が真というのは意外に感じるでしょう。

「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」は論理的には真ですが、この文章を正しいと感じる人は少ないと思います。これが「論理的」と「正しい」の違いです。この違いについてより深く考えてみましょう。

「ならば」の意味

以下の命題は真でしょうか?偽でしょうか?

「X=5ならばXは4より大きい」

これは真です。高校の数学の教科書で習う内容です。では、次の命題は真でしょうか?偽でしょうか?

「牛の足が5本ならばその牛の足は4本より多い」

普通は牛の足は4本なので、偽でしょうか? いえ、「牛の足が5本ならば」というのはあくまで仮定です。仮定は漢字の通り「仮に定めたこと」にすぎません。「普通の牛の足が5本ではない」ということは、この命題そのものの真偽にはまったく関係がありません。

実際に、インドで突然変異によって5本足の牛が生まれたことがあるようです。この牛のことを考えてみると、足は4本より多いです。他の国でも5本足の牛が産まれたと仮に想像してみると、その牛の足は4本より多いです。よって「牛の足が5本ならばその牛の足は4本より多い」という命題は真となります。

論理学での「ならば」は「もしそれが成り立つのならば」という意味です。なので「仮定が普通には成り立たない」ということは、命題そのものの真偽にはまったく関係ありません。仮定が普通には成り立たなくても、それがたとえ異常な条件であっても、成り立つ場合だけを考えて結論を出す必要があります。

仮定が絶対に成り立たない場合どうするか

さて、なぜ次の命題は真なのでしょうか?

「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」

先ほどご説明した通り、論理学では仮定が成り立つ場合だけを考えて結論を出します。「0が1以上」というのが成り立つのはどのような場合でしょうか?

「0の次の数」というのが数学での1の定義です。0の次の数は絶対に1なので「0が1以上」というのはどんな場合にも成り立たちません。このような場合、つまり仮定が絶対に成り立たない場合は、結論が何であっても命題全体は真になる、という決まりになっています。

「仮定が絶対に成り立たない場合は、命題は真になる」という決まりになぜなっているのかの正確な説明は難しいので、今回は割愛します。その代わり、この決まりを解釈しやすくなるイメージをご紹介しましょう。そのイメージは「ありえないことが起きてしまうような世界では、何でもかんでも成立してしまう」というものです。

0が1以上になることは絶対にありません。これまでもそうですし、これからもずっとそうです。「0が1以上になる世界」は人間が今まで見たことない世界であり、これからも見れない世界です。そのような世界では何でもかんでも起こってしまっても不思議ではありません。そのような世界では「富士山は世界一の山」というのが成り立たっても良さそうです。なので「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」は真となります。

これはあくまでもイメージであって、正確な証明ではありません。しかし、「仮定が絶対に成り立たない場合は命題全体は真となる」という決まりを覚えるためには役に立つイメージだと思います。

命題の真偽と結論の真偽は別

「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」は真です。ということは、結論である「富士山は世界一の山である」は真なのでしょうか?そんなわけはありません。世界一の山はエベレストであり富士山ではないので「富士山は世界一の山である」は偽です。

「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」の仮定、結論、命題全体の真偽は下記のようになります。

仮定「0が1以上」:偽

結論「富士山は世界一の山である」:偽

命題全体「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」:真

つまり、偽である仮定から偽である結論を導き出していて、全体としては真であるということになります。

「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」という命題を考えるときは「0が1以上である世界」を考える必要があります。それは私たちが生活している世界ではなく、何でもかんでも起こってしまう世界です。そのような世界では富士山が世界一の山であることも成り立つので、「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」は真です。(繰り返しますがこれはあくまでイメージであって厳密な証明ではありません。)

仮定である「0が1以上」や結論である「富士山は世界一の山である」という文そのものには、「ならば」という条件文が入っていません。この場合は、普通に私たちが生活している世界について考えます。私たちが生活している世界では「0が1以上」も「富士山は世界一の山である」も成り立っていないので、両方とも偽になります。

「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」は何でもかんでも起こってしまう世界の話なので真であり、「0が1以上」「富士山は世界一の山である」は現実世界の話なので偽となります。「命題全体」にはその内部に「ならば」という条件文がついていて、「結論」そのものには「ならば」という条件文がついていないので、その条件の有無によって、命題全体が真、結論が偽、という差が生まれています。

「0が1以上」や「富士山は世界一の山である」といった「ならば」を含まない命題は、「現実世界ならば」という仮定が省略されていると考えてもいいかもしれません。

「(現実世界ならば)0が1以上」:偽

「(現実世界ならば)富士山は世界一の山である」:偽

「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」:真

前2つは現実世界の話なので、現実世界で成立していなければ偽となります。最後の1つは「現実世界」という仮定がないので、0が1以上になってしまう何でもかんでも起こってしまう世界の話となり、真になるという感じです。

「正しい」と「真である」の違い

「正しいことが真であるとは限らない」という記事の中で、このような図を掲載しました。

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この図を見ると、真であることは必ず正しいことであるように思えます。

「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」という命題は真であるので、この図の「真である」という部分に含まれることになります。これを図1としましょう。

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しかし、「0が1以上ならば富士山は世界一の山である」は真であるにも関わらず、正しいことだとは思えません。つまり、真であるが正しくないことがあるということになってしまいます。このことを図で書くと下記の図2のようになります。

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図1と図2のどちらが正解なのでしょうか?図1のように、真であることはすべて正しいのでしょうか?それとも、図2のように、真であっても正しくないことがあるのでしょうか?これは「正しい」という言葉をどのように扱うかによって変わってきます。

楽しいことや悲しいことはその人によって異なります。「象は大きいか小さいか」の答えも犬と比較するかクジラと比較するかで変わります。「楽しい」「悲しい」「大きい」「小さい」と同じように、「正しい」という言葉の意味も人や文脈によって変わる言葉なのです。

図1と図2のどちらを正解とするかは人それぞれです。感覚的に受け入れがたくても真であるなら正しいと思う人、論理学的な感覚を持っている人は、図1のように「真であることはすべて正しい」というのが正解となります。感覚的に受け入れ難いことは真であっても正しくないと思う人は、図2が正解になります。

「論理学的に真かどうか」は厳密に決まるのに対して、「正しいかどうか」は個人個人の感覚によって決められます。なので、「真であることはすべて正しい」と思うか、「真であることの中にも正しくないことはある」と思うか、どちらかというのも人それぞれということになります。

論理学は銀の弾丸ではない

「真であることの中にも正しくないことはある」ということが人によって正解になるということは、たとえ論理学的に真であるからといって、それを正しいことであると他人に強制することはできないということになります。

銀の弾丸」という言葉、もともとは「悪魔を一発で撃退する武器」という宗教的な言葉ですが、ソフトウェア業界では「銀の弾丸などない」という言葉を「一発で難解な問題を解決できる方法はない」という格言としてよく使われています。

もし、ある分野を勉強しただけで簡単に「正しいこと」を知れたら、その分野についての勉強はとても役に立つでしょう。それは実生活において最強の知識になりうるかもしれません。「真か偽か」を論じる論理学はそのような「簡単に正しいことを知れる学問」だと思っている人もいるかもしれません。しかしそうではないのです。論理学での「真である」ということと実生活の「正しい」ということには、違いがあるのです。

論争になった時に相手を論破する手段として論理学を使うのは間違った使い方だと思います。論理学はそのような目的で発展したわけではありません。論破のための「銀の弾丸」として論理学を使うのではなく、もっと人生を豊かにするために論理学を使っていただきたいと思っています。